チケット不正転売との戦い——ローチケが示す本人確認DXの現在地

ライブ会場の入場ゲート前で、スマートフォンの画面を何度もスワイプする人々。紙のチケットを握りしめて並んだ時代は、急速に過去のものとなりつつあります。しかし、デジタルチケットの普及がひとつの根深い問題を解決できていません。不正転売です。

ぴあ総研の調査によれば、2023年のライブ・エンターテインメント市場は過去最高の6,968億円に達しました。コロナ前の2019年(5,862億円)を約19%上回る水準です。市場拡大を牽引しているのは、大型フェスやアリーナ公演の増加、VIP席の多様化による1公演あたりの単価上昇。チケット1枚の経済的価値が高まれば、不正転売の「差額利益」も大きくなります。

消費者庁は2024年12月にチケット不正転売への注意喚起を改めて公表したとされています。国民生活センターへの相談件数は2023年度に約3,000件を超え、増加傾向にあります。2019年施行のチケット不正転売禁止法から7年。SNSの個人間取引やボットによる大量購入など、法規制の網をすり抜ける手口は巧妙化の一途をたどっています。

業界がいま直面しているのは、「転売を取り締まる」段階から「転売をそもそも不可能にする仕組みを作る」段階への移行です。

三つの追い風が加速させる本人確認DX

この転換を推し進める構造的要因は三つあります。

第一に、制度面の追い風です。デジタル庁は2025年6月改定の重点計画で、マイナンバーカードの民間利活用促進を明確に打ち出しました。総務省によれば、カードの累計交付枚数は2024年3月時点で約9,900万枚、人口普及率は約79%に達しています。ICチップに格納された電子証明書を読み取れば公的な本人確認が完了する。チケット会社が独自にID基盤を構築する必要がなくなり、導入ハードルは大幅に下がりました。

第二に、技術コストの低下です。eKYC(オンライン本人確認)は数年前まで金融機関向けの高コストなソリューションでした。しかしTRUSTDOCKやLiquidといった国内ベンダーの競争が進み、API連携によるSaaS型の認証基盤が普及。1件あたりの認証コストは大幅に圧縮されました。iPhoneもAndroidもマイナンバーカードのNFC読み取りに対応しており、専用端末なしで認証が完結する環境が整っています。

第三に、プラットフォーム間の競争軸の変化です。電子チケット対応が各社標準装備となったいま、差別化要因は「認証基盤の強固さ」と「公式リセール機能の充実度」に移っています。不正転売を技術的に排除できるプラットフォームは、人気公演の独占販売権を獲得しやすくなる。本人確認の精度が、興行主催者との交渉材料に直結する時代に入りました。

大手3社の異なるアプローチ

この競争環境のもと、各社は明確に異なる戦略を取っています。

ローソンエンタテインメントが運営するローチケは、電子チケット「EMTG」との統合を経て、購入から本人確認、入場、物販決済までをひとつのアプリ内で完結させる垂直統合型の基盤構築を進めています。全国約14,600店のローソン店舗網を物理的な接点として活用しつつ、マイナンバーカード連携による公的個人認証にも対応を拡大。転売を「禁止する」のではなく、本人情報を引き継いだ公式リセールによって「正規ルートに誘導する」発想が戦略の核にあります。

業界最大手のチケットぴあは、顔認証技術への投資で先行しています。事前登録した顔写真と入場ゲートのカメラ映像をリアルタイムで照合する仕組みをNECとの連携で大型公演に展開。まず入場時の本人確認を徹底し、購入時の認証は段階的に厳格化する「出口戦略」ともいえるアプローチです。来場者データの分析基盤も整備し、認証を「コスト」ではなく「マーケティング資産」に転換する回路を構築しています。

イープラスは、いち早くSMS認証を導入した先駆者として、一定時間ごとにコードが変わる動的QRコードでスクリーンショット転売を物理的に遮断。高コストな顔認証ゲートを設置できないライブハウスや地方会場でも運用可能な軽量ソリューションで、中小規模公演の裾野を押さえています。

今後3〜5年で何が変わるか

この先の展望として、三つのシナリオが考えられます。

最も蓋然性が高いのは、2027年までにアリーナ級以上の公演で本人確認付きチケットが事実上の標準となるシナリオです。不正転売の排除は正規価格での販売機会増加と公式リセール手数料収入に直結するため、興行主催者側にも明確な経済的インセンティブがあります。

続いて2028年以降に予想されるのが、認証プラットフォームの寡占化です。顔認証ゲートの設置やeKYCベンダーとの連携には大規模な投資が必要であり、中小事業者が独自に構築するのは困難です。大手3社が認証基盤を外部開放し、中小事業者がそこに「乗る」構図——金融業界のBaaS(Banking as a Service)に似た「TaaS(Ticketing as a Service)」とでも呼べるモデルが生まれる可能性があります。

さらに長期的には、エンタメ業界で鍛えられた数万人規模のリアルタイム認証基盤が、スポーツ観戦や交通、宿泊といった他業界の入場管理・本人確認へ波及していく展開が見込まれます。エンタメが社会全体のIDインフラの実証フィールドとなるシナリオです。

最終的な勝敗を分けるもの

本人確認DXの最大のリスクは、技術的な失敗ではなくユーザー離れです。認証ステップが増えるほど購入の離脱率は上がります。マイナンバーカードをかざす行為は、いまだ多くの人にとって心理的なハードルが残ります。

だからこそ、初回認証のみで以降はシームレスに利用できるUX設計が決定的に重要です。「一度だけ本人確認すれば、あとは何もしなくていい」。セキュリティと利便性の両立——この一点を実現したプラットフォームが、チケットDXの最終的な勝者となるでしょう。